こんにちは、ADHDとASDの併発型の発達障害をもつ当事者です。
私は今34歳で、自分で定型ではないのかも。。と思い始めたのは、16歳でファストフード店でアルバイトを始めた頃だったので、もう18年前ほどになります。
やっと2か月ほど前から、ADHDに効く薬アトモキセチンを飲み始めて再就職に向けて始動し始めました。
現在は週3建築・インテリアの専門学校に通いながら、週2ほどはマーケティング会社にてライティングに関するアルバイトをさせていただいています。+夫婦2人暮らしで家事は5割ぐらいしてます💦
私は、比較的症状が軽い発達障害者なのでは、、とは思うのですが、それでも仕事は苦手なことが多く、就労を長く続けるのが難しいのが現状でした。
これからコミュニケーショントレーニングなど重ねて、理解を得ながら働けるよう、得意を伸ばし、苦手を知り対応する術を調べつつ、就労に向けて勉強中です。
まだ目指している一般企業の正社員として会社の一員として貢献できる人材になることにはなかなか手が届く状態ではないのですが、そういうことを目指している自分についての振り返り記事を今回は書いてみることにしました。
人によって価値観も症状もまったく違うと思いますので、参考にならない話も多いかもしれませんが、ずっとグレーゾーンと感じている方、治療をしてもっと楽に仕事に向き合えるようになりたい、など思っている方には1つの実例としてお伝えしてもいいのでは、、と思ったのでこちらに記録しておきます。
まだ実際に目標を叶えた訳では全くないのですが、メンタル的に浮上出来た過程はきっと悩んでいる方には浮上するヒント的な何かにはなるかもしれません。 よかったら飛ばしながらでも目を通していただければ嬉しいです。
習い事・勉強でのつまずき、仕事でのつまずき
幼少期はおてんばで活発な面がありつつ、文章を書くのが好きで幼稚園の時から気ままに一言日記をつけたり、短編の小説を書いたりするのが好きでした。(ながらく10代の頃ストップしていましたが、働き始めた頃からたまに思いつきで話を書いてみたり、公募にたまに応募して案の定落ちたりしている、( ̄▽ ̄;))
小学校の時は、先生やクラスメートの励ましにこたえる感じで成績がぐんと伸びたのですが、高学年になるごとに人付き合いが上手くできなくなってしまい、ごく一部の方以外とはあまり会話も出来ないように。自分の存在が迷惑になることなど、高学年になるにつれて実感することも多くなり、小さい頃の人懐っこさは消えてしまったように感じます。
小学校の勉強は満遍なく大体得意で、中学受験にも自ら熱心に取り組み、結果は志望校に合格出来ましたが、相変わらず人付き合いの苦手さは抱えたままでした。
また、3歳から習っていたピアノとバレエに関しては、今振り返ると暗記能力に不安定な要素が多くて、瞬時に習ったことを暗記して踊ったり、楽譜を見ながら演奏することが10年習っても出来なくて、いつも自分で一瞬で読めるようにカタカナで音のルビを書いたり工夫するなどしてようやくピアノの個人レッスンに参加出来るような状態でした。
結局居場所が見出せず、どちらもある程度は好きでしたが習い事は10代前半でどちらも辞めてしまいます。
また、中学になって入ったソフトバレーボール部では、こちらも瞬時にどこにボールを投げたらいいかの状況判断がとても苦手で、毎日の練習がとても苦痛でした。
人が多い場所、人目に付くことが苦手なので、校庭の裏で素振りの練習したり。。。身体能力的にもあまり得意ではなかったのですが、色々と苦手が重なり、精神も体もよい状態とは言えず、結局高校1年の時に潰瘍性大腸炎で手術をしたことをきっかけに部活動には参加しないようになりました。
部活動に参加しないのと引き換えに、アルバイトを始めましたが、ファストフード店のカウンター接客でも直前に言われたことを覚えられずにミスをしたり、ストローなどの入れ忘れなどのミスも多くていつも怒られてばかりでとても出勤するのがしんどかったのを覚えています。
思えば、当時から発達障害的な症状が多かったのに、色々と活動するたびにメンタルを病むことに繋がるループの繰り返しだったと思います。
勉強は中学に入ってから理数系が全くできなくなってしまい、数式の暗記も出来なくて大変でした。
なんとか反復練習で英語は中の下ぐらいの成績までになりましたが、数学は全くダメで、浪人したセンター試験でも苦手な数ⅡBは20点台だったと思います。💦汗
大学在籍時から、仕事に対する苦手意識が強く、就職活動も精神的な落ち込みからほかの方々のように新卒採用のため、説明会にエントリーするなどは出来ませんでした。
卒業後は時短の単発型の工場派遣スタッフなどからバイトを始めて、以降マンスリーマンションに入って地方の工場勤務をしたり、英語学校のスタッフをしたり、雑貨屋さんで接客をしたり、様々な仕事に就きましたが、結局どうしても苦手な作業や人との関わりの難しさから退職してしまうことの繰り返しでした。
転機となった結婚とイタリア生活
転機となったのは、イタリアの方と結婚し、イタリアに移住したことです。移住直前まで働いていたお店でもレジなど苦手は多く、日本でキャリアといえるような経歴はありませんでした。
なかなか仕事もうまくできず、精神科で精神安定剤をもらっていたりも日本ではあったので(一時期は障害者手帳3級もいただいていました)
イタリアでは言葉がなかなか話せないのもありますが(イタリア語は主語による動詞変化などなかなか英語以上に複雑な変化があるのも苦手の原因だと思っています)、
在宅で業務委託でライティング業務に就くなどして収入確保を目指しました。
結局は1日8時間以上働いて、週1〜2休みで2年で10万円ぐらいしか稼げなかったのですが(苦笑)この経験は日本での就職を目指すきっかけ、自信にもなりました。
きちんと自分が書いた記事をポートレイトとして営業に使ったり、様々なクライアントとの仕事を通した連絡のやり取りが出来たことも良い経験になりました。
また、イタリアの夫のご両親のもとを訪れた際など、大人になってから違う家族のもと暮らしたことも、生きるスキルを高めることに繋がったと思います。
自家製のお野菜やオリーブオイルを使った素材を活かしたていねいなお料理(スローフード)手間や工夫で美味しく日々身近な食材を調理することなど、シンプルな暮らしを毎日積み重ねておられるのを感じて、自分にとっての目指したい充実した暮らしのイメージ、年月を重ねる愉しみも掴めるようになりました。
精神安定剤を飲んでいた時期に増加した体重も、自炊の徹底で回復し、もともと肥満にカテゴライズされる体型でしたが、気付いたら12歳の頃の体重に戻っていました。
もともと体重の増減は仕事の大変さなどである方でしたが、今回はその中でも体重を健康的に落とせたのではと思っています。
イタリアでは就職難についてや、仕事にすべてを捧げすぎない、家族重視のライフスタイルなど、夫側の親戚の皆さんとの交流を通じても学ぶことが多々ありました。
日本では、私はなかなかアルバイトを脱することができない、健康や自分の身の丈を垣間見れない問題を抱えた人物でしたが、別の社会的な環境、国、家庭環境だと全く違う意味合いをもつのだということを実感した次第です。
結局、私は夫に金銭がかかることすべてをお願いして与えてもらう生活が性格的にどうしてもできなくて、夫婦の関係性も悪くなるのもあり、日本で就職先をみつけて帰国させてもらいました。
念願だった海外暮らしを続けられなかった挫折は大きく、まだ帰国を伝えられていない方が大半ですが、身の丈を知りながらいつかまたイタリアのお家に帰れる日を目指し、まずは社会人として生きていける自分になろうとしています。
日本で初めて正社員勤務してのつまずき
2年ぶりに帰国した日本では、外構の設計職に未経験ながら正社員で雇っていただきました。会社の中に入って社員として仕事をする初めての経験になりましたが、なかなか事務的なスキルやコミュニケーションがうまく行かず、やりたかった設計の勉強も落ちこぼれていくばかりで実務に就けず、自身が頂いている給料に見合った人材に思えず結局1年ほどで退職しました。
会社に入って思ったのは、私は仕事をしながら外構や設計をゼロから学べるほど器用ではないということ。
そして、やはりショートメモリーが弱くてメモを逐一取ったり、かなり集中して確認事項を確認しながら作業しないと修正に時間がかかってしまうこと、など弱みが多いと実感しました。
間違いが続いたり注意を受けるとパフォーマンスも下がってますます作業に支障をきたすようになり、メンタル的に弱ってきたところでどうしても設計を続ける道を模索したかったので精神科で発達障害について相談したところ、以前書いたこちらのブログのように心理検査を受けた後、ADHD症状改善の為薬を飲むことになりました。
気持ち的に折れてしまい、会社の方に配慮を求めて働かせ続けてもらうことは選択しませんでした。
医師にも言われましたが、自分のことを知り、仕事先の方に自分の取扱説明書を渡して配慮をお願いするぐらいのことをしないとなかなか上手くいっていない状況をまわりからも変えていってもらうことなんて難しいのが現状に思いました。
上司にも自分が何ができてできないのかわからないと言われてきたので、自身を仕事を得るために適切に説明する力って重要なんだなと思ったりしました。
一度社員として入社した会社をやめてコミュニケーションを見つめ直したり、今まで指摘を受けてきた自身の弱みと向き合い対策をする時間を学生をしながらつくって次回の就職時には生かしたいと思っています。
就職してよかったのは、やはり職場の方々からのフィードバックです。
主にやはり発達障害が関係して仕事ができてない点はなにか、具体的に知ることが出来たので対策をとる道筋も見えてきたように思います。
先輩方には参考になる助言や考え方、知恵を色々といただきましたが、定型の人とされる方々だって得意や苦手、できることできないこと、好きなことしたくないことがあることも話していただき、腑に落ちました。
チームでそれぞれの強みを生かしながら高いレベルに到達することなど、苦手への意識の持って行き方も学べたと感じています。
▼精神科で発達障害の診断を受けた過程、体験談はこちらの記事にまとめています
今後の目標
日本に帰ってきて、今まで気づかずに溜めてきた自分の学びのリソースを伸ばしたり、活用できればいいなと思うようになりました。今まで自分で考えることもせずに連れて行かれた各地の建築・アート展。
いつも大量の本に囲まれた生活。
惜しみなく子供の頃に興味のままに好きな本を読めたこと、音楽を聴けたことは自分の興味関心の幅や人との交流範囲を広げ、想像力をつける訓練を常に授けてくれてきました。
まだ組織の中で1人のプレイヤーとして全体に貢献できるほど確立したスキル、実力はないけれど、イタリア→初の正社員生活の流れの中で自分のもつ大きな弱みや自分の強みまでいかないけれど、とても好きなことなど自己理解を急激に進める事ができました。
また、自身の性質、行動に伴ってメンタルを病む原因が減り(接客仕事や相手から愛されない恋愛など)働ける状態を手に入れられたことは、また生きたいと思える基盤になっていると思います。
今のまま治療を続けながらスキルアップの勉強を続けて、次の就職時にはまわりの方とのコミュニケーションに注意し好きな仕事を続けられるようにするのが目標です。
私が自分の苦手なスキル、苦手の原因を知ることは上司など指導役の方々にもプラスになるだろうし、自分の居場所を仕事場につくることに繋がると信じています。
こうしたコンセプト、目標、目指したい方向性と現状の差をポジティブに活用、改善して仕事を続けていく持久力をつけ、年齢や条件的にも厳しくなっていく転職活動や、入社後の働き方に活かしていきたいと思っています。
結婚、海外移住を叶えただけでは私の場合は仕事に躓き、自分にとって充分な安定した精神を保つことができませんでした。
私の場合は仕事のウェイトが日々の中で大きく上手くいかないままに潰れてしまいましたが、私のいたイタリアでも多くの日本人が充実した日々を過ごしています。
私は状況が難しいので金銭的自立を模索する日々を送っていますが、そうでなくても日々を過ごしていける方はその環境を大事に自分が元気になれる働き方をするなど、病まない方向に行ければいいんじゃないかなと個人的には感じています。
私自身も病気があるとはいえ、夫を巻き込んだり振り回したり迷惑をかけすぎだなと思う節は多々あり、イタリアから日本帰国直後は罪悪感も今より大きかったです。
今は発達障害の診断を受けたり、もっと将来について考えられるようになってきたので、以下の投稿をしたときよりは心も落ち着いています。
▼過去記事:Adeleの『Easy on me』と読書『離婚約、してみました。』wrriten by のらりくららさん、まわりを知りながら自分を知る過程なう
大学生の時は就活の説明会にも出れず、仕事も出来なくて絶望ばかりでしたが、10年経ってやっとここまでメンタルも回復してきました。
老後の自分なんてお金もなくてネガティブな状況しか浮かばないし、ただ日々を生きるということが苦行にしか感じられなくて変わらない自分自身や未来の見えない状況に気が滅入るばかりでした。
そんな自分が、イタリア生活や会社員生活を得て変わったマインドについて本投稿ではご紹介しました。
長くなりましたが、発達障害当事者の私が辿った過程を記させていただきました。
今辛い気持ちでいる発達障害の方々の未来が健やかでありますように、心から願っています。
私こそ、まだ自立や目標を叶える道の途中過ぎなのですが、得意を見つける、出来ないことは周囲に真摯にお願いするなど、日頃から丁寧に生きていきたいと思っています。
そして今は将来を見据えながらも、自分のしなきゃいけないこと、したいことを把握して、なるべく今の日々も楽しめるような心持ちでいれたらと思っています!
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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